utopiapartment

about something too important to be taken seriously

ベッリーニ「異国女(La straniera)」(チューリッヒ)★★★★★

スイスに行ったのは、一度は長い間名ソプラノとして世界に君臨しているエディタグルベローヴァの歌声を生の舞台で自分の耳で聴きたいなと思っていたから。彼女はもうすぐ70才になろうとしていて、2015年以降はスケジュールを入れておらずおそらく引退が近い。行けるうちに行けるとこに観に行かなきゃと思った。

行きたいと思ってる場所や、見たい聞きたいと思っているものはちゃんとなるべく早く実行しないとチャンスを失う。いつかやろうと思ってることって、いつやるか決めておかないとあっという間に時が経って状況が変わって出来なくなったりする。

わたしは欧州に住んでたのに生きているパヴァロッティの歌声を聴きに行かなかったことと、オペラ座のマニュエルルグリの踊りを一度は観たいと思ってチケット取ったら公演日を間違えてしまいしかもそれが引退公演で結局見逃したことをとても苦い思い出として覚えている。
また、ロイヤルオペラハウスの吉田都のプラムシュガーフェアリーを一度は観たいと思って観に行ったら、公演が終わったその夜に引退が発表されて図らずも最後のチャンスだった経験などもあってもう、とくに舞台は観れるときに観ないとあぶない!生身の人間はいつ出てこなくなるか読めない!と心底思っていて、だから今回のグルベローヴァの公演も思いついて速攻で取った。

グルベローヴァが引退に向けて最後に選んだ作品が今回の「La Straniera(異国の女)」。ベッリーニのこの作品はあまり上演されることがなく、エディタにとっても主役のアライデは新役。どうして最後にこの作品で、この役なんだろうと不思議になるようなミステリアスな作品だった。ぜひそれを知りたくてインタビューが載っている冊子をオペラ座で見つけて持ち帰ったんだけど、中身がドイツ語だった。無念…

物語:
舞台はフランス。
主人公のアルトゥーロ伯爵はイゾレッタという領主の娘と結婚が決まっているのだが、じつは気になる女性が他にいる。湖のそばで隠れるように住んでいてベールを被って顔を隠しているミステリアスな女性アライデ。アルトゥーロは恋心を抑えきれず、彼女からここに来てはいけないと言われながらたびたび家を訪れている。
アルトゥーロの友人のヴァルデブルゴ男爵はアルトゥーロから「ぜひ一度彼女に会ってほしい、君が止めるのならもう彼女とは会わない」と言われ、彼を諌めるつもりでついて行く。が、アライデと会うなり思いがけず彼女の正体に気づき抱き合う。彼はアライデの正体については伏せたままアルトゥーロに彼女は幼馴染なのだと説明し、彼女のことはどうあっても諦めるように強く言う。アルトゥーロは親密な空気と男爵の態度に2人の関係を疑い剣を向けるが、アライデに懇願されて止める。

しかしそう簡単には嫉妬と怒りが収まらないアルトゥーロ。噂で男爵とアライデは二人で逃げようとしていると耳にし様子を見に行くと実際に彼らがそう話しているのを立ち聞きしてしまう。男爵に決闘を申し込んだアルトゥーロは勝って男爵を湖に突き落とす。しかしそこへやって来たアライデからじつは男爵は自分の兄なのだと打ち明けられ過ちに気づく。アルトゥーロは男爵を救うため湖に飛び込み、血に染まったアルトゥーロの剣を持って1人その場に残されたアライデはあろうことかその後やってきた人々にアルトゥーロと男爵を殺したと非難され逮捕されてしまう。

身分を明かすことができず、法廷で申し開きすることの出来ないアライデ。
裁判官は彼女の声に聞き覚えがあるのだが、思い出せない。有効な申し開きがなくアライデの罪が確定しそうになった時、突然アルトゥーロが現れ犯人は自分だと訴える。さらに湖に沈んだはずの男爵も現れ、二人とも無罪だと訴える。そして裁判官にだけアライデのベールを持ち上げ顔を見せるとその正体に驚いた裁判官はすぐにアライデの無実を言い渡し大変な無礼を詫びてその場は解散になる。

あらためてアライデに謝罪するアルトゥーロ。彼はどうしても諦められないと熱烈に愛を告白するのだけれど拒絶されてしまう。男爵からもどうあってもアライデと結ばれることはできないからイゾレッタと結婚するようにと説得され、しぶしぶ受け入れる。そしてどうか最後に一目アライデを見られるように結婚式に出席してほしいと頼むのだった。

花嫁イゾレッタは結婚式が近づいて準備をしているが自分が前のようには愛されていないことに気づいていて、悲しみにくれている。そしてアルトゥーロの愛のない態度に結婚式を取りやめようとするのだが、アライデからどうか結婚式を続けてほしいと言われる。アライデはその場から立ち去るのだがアルトゥーロはアライデを追いかけずにはいられない。そのとき、裁判官からアライデがもう正体を隠す必要がなくなったと人々に発表される。アライデの正体はフランス王妃アニェーゼ。フランス国王の前妻との争いに巻き込まれ姿を隠していたのだがようやく決着がつき、王妃として王宮に帰れることになったのだった。

真実を知り、絶望したアルトゥーロは自らを剣で突き刺す。イゾレッタのウェディングドレスは血に染まり、アライデはショックを受けるが、それを押し隠し自分の義務を果たすため王妃として王座へ向かうのだった。おわり。
..................................................................................................................................................................................

クレジット;


チューリッヒは短い滞在でもいろんなことに衝撃を受けて、そのひとつが水道水や街にある飲用水のひんやりさとおいしさ、美しさだったのだけど、公演の夜グルベローヴァの声を聞いて最初に浮かんだのもまったく同じ水の冷たさ、透明さのイメージだった。目に見えないおいしい水みたいなきれいで気持ちのいい声!眠気がふっとんだ(一幕序盤でちょっと寝てた)

もう70にもなろうという人がいまだ20代のように若々しくピュアな美しい高音で歌っている…映像や音では聞いてたけど聞いてたのは主に若かった頃のものだったし、ピークに比べて声で圧倒することはなくなったけど技術でカバーしているみたいな話聞いてたので、もっと衰えのようなものを感じるんだと思った。いまだにここまでなんて!!びっくりした。うとうと夢の世界にいたら突然どこからかシュパーーーっと冷たい水が浴びせられたみたいな声がして目が覚めた。それがエディタの最初の登場、遠くからアライデの声が聞こえてくるシーン。山の中で小川に手を入れてみたら冷たくて気持ちよくて山登りの疲れが飛んだ、みたいな感覚。ひーーきれい!!

パガニーニはその技術の凄さに悪魔に魂を売ったという噂が立ったというけど、あまりに美しいものを前にすると人は恐ろしさを感じるように出来ているんじゃないかしら。わたしは彼女の声を生で聞いたのは今回が初めてだったので予想以上のパフォーマンスにただただびっくりして、そのうちほのかに恐ろしさを感じた。
ミステリアスな役柄のせいもあるだろうけど…だってもうおばあちゃんに差し掛かった年齢の人がこんなに若々しい声を保てるものなのかしら。生まれ持った声という宝物と、その声を出来る限り徹底的に管理してきた努力、いろいろな要素が組み合わさって可能にしているのだろうけれど、それにしても。ふつう、女性の声は年とともにある程度低くなるものだ。電話越しに声を聞いてだいたい年齢が想像つくのはその年齢なりの声があるから。高音の歌手がその音域を保ちつづけるのは不可能に近い。ちょうど最近40代付近のソプラノ歌手たちの声が変わってきているのを目の当たりにして、声を保つことの難しさを考えていたところだったので、奇跡奇跡とは聞くものの、ほんとうに奇跡って誇張じゃないかもなあと唸った。ピークはいかほどだったか想像してふるえる。

もちろん、若い頃よりその鉄の肺は衰えているはずでそれを感じさせる部分はある。高音より低音でむしろ息が乱れることはあった。けれどそれさえも劇的な感情表現の一部として見せていて、3時間近い舞台で最後まで、というか最後に至るほど力がみなぎっていって、もうその魂がすごいと思った。心意気とか技術とかそういうんじゃなくて、魂が舞台に立っているみたいだった。

真っ黒のベールをかぶったミステリアスで魅力的な女性から、王妃の座に戻れることを知りひとりぼっちで疲れ果てたような仕草でアクセサリーをつけて元の姿に戻るシーン、そして大勢の前に堂々と王冠をかぶり王妃として出て行く威厳ある態度まで、アライデという役はだんだん変化していく。それを見事に演じ分けていた。

カーテンコールでは何度も深々ときっちりお辞儀をしていて、あんまりぱああーーっと派手に笑わない。舞台上で出し切ったかのように魂が抜けて、年齢相応の顔になっていた。少しレオヌッチのカーテンコールと似てる。やっぱり幕が下りるとぶわあーっと持ってた荷物が落ちるのかなあ。

カーテンコールの拍手はいつまでも鳴り止まず、何度も何度も出演者たちが出てきてはお辞儀をして幕が下がり、ついに拍手の中劇場の灯りがついて観客はみんな退出しはじめた。ふつうはそれでおわり。でもそれでもまだ意思を持ってアンコールの拍手を続ける人たちがいて、エディタが1人で出てくる。ゆっくりとお辞儀する。それでもまだ拍手はやまない。また出てくる。何度もそれがくり返された。拍手がある限り、彼女は何度でも出てきていた。もうお客さんがほとんどいなくなってもまだ興奮して拍手するまばらに残った人たちのために、何度でも。

舞台演出はクリストフロイ。
初めて観る作品で他を知らないのだけど、おもしろい演出だった。舞台の上なのに舞台裏みたいなセット。天井はベニヤ板のような簡素な装置で覆われそこから何本ものロープが垂れ下がっている。舞台下手には壁沿いにここにもまたロープが何本も巻き上げる装置とともにあって、実際舞台中に出演者が操作したりしていた。
幕が上がってすぐしばらくはアルトゥーロがぽつんとひとり舞台に立って天井から下がるロープを手に巻きつけては離し、巻きつけては離し、という動作を無言でする。これはラストシーンでもおなじ動作があった。
また、湖のほとりでひっそりと暮らすアライデの館は緑の植物調のプリントがされた薄布が二枚舞台上に吊られていて、その後ろを歩くことでよく見えない(けれど見える)という状態になっていた。ものすごくシンプルで、知的な印象。

指揮はイタリア人のファビオルイジだったのだけれど、音楽がすっごくよかった。なによりオーケストラがみんなきっちり上手い!!しばらく音楽が上手いことに気づかず舞台だけに集中してしまったほど、舞台上の邪魔を一切しなかった。イタリアだとオーケストラにムラがあって調子が悪いときはオーケストラのミスに集中力を削がれることがあるのだけど、そっちに慣れてきていたのでこんなにも邪魔にならない美しいオペラ伴奏があるなんて…!って変なショックを受けた。イタリアはバレエもコールドがあまりよくないことあるし、チームワークというのが苦手な国なのかもしれない。


ミラノからチューリッヒへ向かう往復の車内で、映画「レミゼラブル」を観た。物足りなかった。
映画は舞台とは違ってアップに耐える細かい表情や自然な動きの演技が求められるし、映画に適した演技の出来る人たちが優先されたのかもしれない。いくら舞台で有名でも世界的な知名度では映画俳優とは差がある。映画を当てるためには舞台俳優が映像で演技したもの、では弱いだろうからそれは仕方のないことなのだろうなあとも思う。この映画を観て劇場に足を運ぶ人が増えれば(実際ロンドンでは増えているそうだし、来年にはNYで新たにショーがスタートするらしいし)それでいいのかな。いいのかもな。とも思う。

しかしせめてそれならば録音の方法を考えたらよかったのに、と思った。現場で生録りするというのも話題のためだったんだろうか。たしかにこれまでにミュージカル映画で口パクが不自然に見えたりすることはあったけれど、今回の映画を観て、それでも歌がきちんとこちらに来ないことに比べたらずっと些細なことだと思った。そういう意味では吹き替えを使っていた昔のミュージカル映画や、ディズニー映画は良心がある。

ミュージカルやオペラは、舞台演劇を派手にしたりおもしろくするために音楽がついているのではなくて、音楽でしか語れないことを語るためにオーケストラが鳴り、歌があると思う。さっきまで喋ってたのに急に歌い出したり踊り出したりする、っていうことに抵抗がある人もいるだろうけれどそれはたぶん巡り合わせの問題で琴線に触れる作品に出会えば歌うことの必然性を感じるんじゃないかと、それぞれの人に届く作品というのがあるんじゃないかとわたしは思う。

歌は、歌の内容に景色がついて背景が加わって感情がつき、ただ話すより情報量が増えてずっと雄弁になる。話すよりも歌う方がうまく伝えられる、伝わることがあって、それが出来る特別な声を持った人というのがこの世界にはいる。「歌が上手い」んじゃなくて「歌にのせる」ことができる人。それってギフトだ。しかも盛大に人々にシェアできる、すごいギフト。

わたしはオペラやミュージカルを見る時に演技を見るのも好きだし、動きから現れるその役の意味や感情、人との関係性に掴まれることもあるし、舞台美術や衣装や演出を見るのも大きな楽しみのひとつではあるのだけど、やっぱり、歌しか持ってない力を体感できるから歌がいちばん大切だと思う。同じ空間で、耳から全身を揺さぶるこのすごい力に浸らせてもらえる幸福って、すごい。しかも舞台はそのときにしかない消えてしまう芸術だ。記憶に残したくてこんな風にここに書いていても、何もしないよりはよくてもやっぱり上演時間中しか感じられなくて、たくさん消えてしまう。胸に響いた余韻だけが残る。でも、そういうのが人を支えてるって強く思う。