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about something too important to be taken seriously

ロッシーニ「湖上の美人」★★☆☆☆

ロンドン旅行中に観た、ロッシーニ作曲「湖上の美人」。


ロッシーニものの中でもたぶんわりとマイナーな方に入る作品だと思うのだけど、当代の名テノール、一度は生で聴きたいフアンディエゴフローレス出演!!ロッシーニを得意とする名メゾソプラノ、ジョイスデドナートとダニエラバルチェローナの豪華共演!!ということで遠征してきた。

ダニエラバルチェローナは最近トリノ王立劇場のドンカルロにエボリ公女役で出演しているのを観たばかりで、とてもとても心を持っていかれていたので、フローレス目当てで買ってあったこの湖上の美人に出ると後から気づいて歓喜。ロッシーニ歌いだそうなのでぜひロッシーニもので観たいと思ってた!うれしい。イタリア人の彼女、意外にもロンドンのロイヤルオペラハウスは今回がデビューらしい。カーテンコールでも大きな歓声を浴びていたのでよいデビューだったのでは。
ちなみにフローレスは足ドンドンがすごくて劇場が揺れる歓声だった。

クレジットは以下の通り


物語の大筋は、
スコットランドの王様がいて、反逆者グループがいる。
王様に背き反乱側についた父を持つとてもうつくしい娘エレナ。彼女にはひそかに愛しあう恋人マルコムがいるのだが、父はエレナを反逆者グループの頭領ロドリーゴの許嫁にしてしまう。また、偶然お忍びでやってきた王様もエレナの姿を見かけてエレナに恋をしてしまう。立場の異なる三人から愛されて迷惑なエレナ…美人さんはたいへん。
反逆者グループはついに武装蜂起。が、最終的には失敗してエレナの父も反乱軍に与したマルコムも捕らえられ、許嫁ロドリーゴはエレナの元に忍んできた王様に切りかかって決闘となり、王様に殺されてしまう。
エレナは王様の正体を知らないんだけど、何かあったらこれを持ってお城に来なさいと指輪を渡されているのでそれを持って お城へ父と恋人マルコム救出のため向かう。そして王様の正体を知り、王様もまたエレナの望みは何でも叶えると約束してあったので父とマルコムをエレナの元に返してあげて、エレナとマルコムは結ばれる。
おわり。

元はウォルタースコットの叙情詩だそうなのだが、率直に言ってあまりおもしろさを感じない物語ではある。音楽はロッシーニのきらびやかな装飾がふんだんに使われた曲ばかりとはいえ、これを劇的にするのはなかなか難しいのかもしれない。それにしても今回の演出はあまりに不可解だった。


まず、幕が上がるとシルクハットにステッキを持ってタキシード姿の紳士たちが大量に集まっている。暗い雰囲気の図書室なのかクラブルームなのかそういう類の部屋にガラスケースと衣装や船の模型などが陳列されていて、彼らはそれを鑑賞している。昔の時代の物語の展示、という趣向か。巨大なガラスケースに入っているのはエレナ役のディドナート。動かない彼女を係がケースから出し、彼女が歌い始めることによって劇中劇として物語が始まる。解釈として16世紀にあったスコットランドでの特定の武装蜂起を下地にしている。

舞台袖には上手と下手に椅子が置かれ、常に博物館の監視役よろしく1人ずつタキシードの男性が座っていて、彼らが背景の壁を扉のように手動で開けることによって場面転換が行われ、16世紀のスコットランドが現れる。

このタキシード姿の2人、決闘時の剣や王様がエレナに渡す指輪などの小道具をその都度演者に渡し、王様の王冠を取ったり被せたり、衣装替えを手伝ったり、雨が降ってくると演者に傘を差しかけたりするのだが、それ以外にも端っこで眠りこけてみせたりお酒を飲んだり、舞台上にたくさん人がいるときなどはその中に入り込んでちょっかいを出したり、興味深げに眺めてみせたりする。後から知ったことには彼らは作曲家ロッシーニと原作の詩を書いたスコットという設定らしいが、これは劇中劇ですよ、というアピールのためにたびたび立ち上がって作中に入ってくるのも、両脇にいるときの小芝居も、どちらも不自然で視線を無駄に散らしていた。邪魔…!!!

16世紀のステレオタイプ表現のつもり?なのか、反逆者グループの低いモラルを表しているのか、ロドリーゴが率いる反逆者グループが村を占領したときには村の女性たちを強姦する場面がかなりしつこく生々しく続き、猪なのか巨大な動物を吊るし上げてその血と臓物を甕に溜めてそれを戦士たちの顔や体に塗って鼓舞する儀式をしたり、武装蜂起のあとは天井から何体も首を吊った死体がぶら下げられたり、あまりにベタだけどそれが何を表したいのかわからない不快な表現が続いて辟易とした。ちなみに猪のような動物は血と臓物はリアルなのに本体がすごくチープなハリボテ。なぜそこだけ手を抜いたのか。

また、スコットランドといえば!という感じで戦士たちや王様が纏うチェック柄の衣装。ベタ過ぎ…最後の場面では背景までもが赤いチェック柄で覆われていた。劇中劇では1人チェック柄を着ていなかったエレナも、最後にもう一度ガラスケースに納められるときにはチェック柄の布をまとわされていたので、実際の出来事も後年物語になるときに都合よく脚色される、というような意味なのかな?と少し思ったけれど、よくわからない。

劇中劇の終わりにエレナとマルコムが結ばれると最初の図書室だかクラブルームのような場所に戻り、反逆首謀者である父ダグラス、戦士マルコムは1人ずつガラスケースの中に入れられ、エレナは最初とは別の、藁を敷いたガラスケース(おそらく棺)にしまわれる。が、劇中劇の中の人物であるはずの王様はしまわれない。三人がしまわれ鑑賞の対象になったあと、なぜか時代もちがうはずの王様は仰々しい王冠をかぶり、豪華でぶあついマントを着て、正面から見て逆V字型に階段を二つ組み合わせた壇上に歩いて登っていきその前に人々がひれ伏す。というラストだった。なんなんだこのラストは。
すべては王様のための余興…みたいな意味なのだろうか?この王様、二幕の頭でも袖から登場し例の邪魔な二人に合図をして背景を開けさせて歌い出すのだが、なぜ王様だけが時代を超えているのか。そして王様を立てるにしては衣装がわざとらしく仰々しく、滑稽に見えるようにしてあるのはなぜなのか。


あと…そもそもの物語を無視しすぎていたと思う。

入れ子構造にするのは百歩譲っていいとしても、劇中劇に原作者と作曲家を不自然に介在させて劇中劇の流れを崩す意味がわからない。劇中劇の人物であるはずの王様が時代を超えて外側に出てきて黒幕っぽく描かれているわりに王様自体を滑稽に見せる演出、劇中劇にあらわれる登場人物たちを観賞用のガラスケースに入れて物語の中の人物として描いているようで、最初は観賞用のガラスケースに入れていたエレナを1人だけ最後は棺に入れたり、境界線がハッキリしない。

劇中劇の描き方も、体制に逆らって反逆するもの、しかもそれが大勢になっている場合はそれなりの動機があるはずなのに、戦いが好き酒と女が好きなならず者たち、みたいな単純な描き方は実際にあった武装蜂起を下地にしている以上当時の人たちに失礼なのでは。そしてここまで単純化してベタ過ぎる演出をしたからにはそこにそれなりの意味があるのだろうと想像するけれど、それがまったく伝わってこないので不快感ばかりが残ってしまう。下地にされた本来の叙情詩も実在の武装蜂起も、演じている出演者たちも、だれもが得をせず馬鹿にされ翻弄されているような演出で、あらゆる意味で気に入らなかった。


そもそも人間をガラスケースに入れて見せものにするというのもグロテスクだ。いや、それ以上にグロテスクなものが数多くあったけれど、あえてグロテスクな表現をするからにはせめてそこに意味をもたせてほしい。ただ単にグロテスクなものを羅列されただけでは、演出家の個人的性癖に付き合わされているようでたまらない。そんなの見たくて来てない。
歌い手も、背景も、衣装も、照明も、演出も、音楽も、物語も、指揮者も、オーケストラも、小道具も、観客も、どれかひとつでも自分本位に目立とうとしたら他のすべての足を引っ張る。すべてが裏方になりすべてが引き立て役になることですべてが輝きそれぞれに目が行き全体が充実するのに。

今回、出演者たちの歌が揃ってとてつもなくすばらしくコンディションもよく、目を閉じて歌を聴いている限りはこんなにも完成された舞台はなかったのがまたくやしいところ。
質という面では舞台装置や衣装もよかったので演出によって作品が破壊されているのが残念でならなかったし、あまりに歌がすばらしくてこの出演者たちでこれを作るなんてなんてリスペクトがないんだろうと腹が立った。

ロッシーニの、いじめなのかしらと思うほど全幕通して装飾たっぷりの曲の数々。それを完璧なまでの安定感で支配し輝く笑顔で歌い上げて行くフローレスとディドナートの超絶技巧。超絶技巧なのに不安などみじんも感じない余裕の表情と安定感なのでただ聴こえてくる歌声に身を任せて心ゆくまで楽しむことが出来るという幸福。
わたしはディドナートの声質があまり好きでないのだけれど、そんなことは完全に置き去りにしやわらかくねじ伏せられてしまった。ああ、人の耳をこんな風に支配できる歌があるのだ、と思った。王様を演じたフローレスはフローレスで、よい意味で今まで映像や音で聴いてきたものとまったく変わらない質、そうか完璧ってこういうことなんだなあ。。
そしてバルチェローナ。マルコム役なので男性を演じているんだけど、こんなにも男性がハマるメゾソプラノがいるかしら!!舞台上のだれよりも長身、立派な体格で、うつくしい体捌き。歌声の安定感、パワフルな声量と説得力のあるあたたかいぬくもりある声質。ドンカルロでも圧倒的存在感だったけれど、今回も存在感という意味ではバルチェローナ見事。
これはもう完全にファンになったわーー…
それから、ロドリーゴ役のテノール、コリンリー。フローレスと並んでも聞かせるすてきテノールだった。フローレスはやっぱりちょっと異質というか別ジャンルというか、他と並んでも比べられない。コリンリーはコリンリーで軽やかでヒロイックな声、フローレスを聴きに来たんだけど、あら!こっちもいい!!とびっくりした。完璧に歌を歌うという意味ではディドナートやフローレスとはちがうのだけれど、彼らがちょっと違いすぎるというか、作品を観るには彼の歌はとてもよかった。こんなに揃ってみんながすばらしいことなんてそうそうない。そういう意味では歌はほんとうにほんとうにすばらしく、贅沢だった。



このあいだイタリア語の先生に、どうしてそんなにオペラが好きなの?と聞かれた。
うまく答えられなかったのだけどやっぱりこんなにもありとあらゆる要素がかけ合わさってひとつを作り出す芸術は他にないからだと思う。子供の頃や学校でオペラを映像でみせられたり連れていかれたことはあったけれど、わたしがほんとうにオペラに興味を持ったのはパリに住んでからで、いちばん最初に「あ、すごい!」と思ったのは、あるオペラの照明を見たとき。物語でもない、音楽でも、歌でも、舞台装置でもなくて、照明だった。

光を当てるという技術はこんなにもいろいろと組み合わさって、または組み合わされないことで、語るものなのか。これだけで芸術として成り立っているじゃないか、それが贅沢にも舞台の一部でしかないなんて、オペラって、なんてすごいんだろう!頭の中でパカーンと知らなかった扉が突然開いた感覚がした。今も照明は好きだけど、それ以上にぜんぶが好き。すべてが組み合わさって作り出されるその瞬間にしかないオペラという虚構の空間が好き。

それは歌だけすばらしくてもだめで、見た目がよくてもだめ、照明が見事でもだめで、音楽がうつくしくてもだめ、あらゆる要素が助け合って溶け合わないと成立しない。どこかが良くて他が揃ってだめなときは単体で楽しんだりもするけれど、やっぱり醍醐味はかけ算につぐかけ算であらわれる融合反応。物語とその演出はその中でも肝なのでほんとうに頑張っていただきたいと強く強く思うのだった。