utopiapartment

about something too important to be taken seriously

The Rachel Divide

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https://www.netflix.com/title/80149821?s=i&trkid=14751296


そんなニュースを何年か前に見て、そうか黒人憧れかーって思ったのを覚えてる。その彼女のドキュメンタリーが出て以来見たいと思いつつリストに積んだままで、今日やっと見た。

そもそもこのドキュメンタリーを見るまでは、ブラックカルチャーに憧れて黒人風の格好してたら黒人に間違えられるようになって、ついつい本当は白人だってあえて言わなくなっちゃって結果的に「否定しない嘘」で装っちゃったのかな?と思っていた。

でも、実際の話を聞くとそれは違っていて、彼女はあくまで「白人に生まれたけれど黒人をアイデンティティとしている」という主張で、嘘をついたつもりはないのだった。
むしろ「わたしは黒人だ」と言う方が(多くの人にとってはそういう風には映らないが)本人にとって真実で、「わたしは白人だ」と言うことに本人は抵抗がある。だから、インタビューであなたは黒人か白人か?と聞かれるたびに言い淀み、答えが揺れる。でも大衆は彼女が「白人だ」と答えることを求めていて、マイクを通してそう言うと客席の人たちが拍手していた。

人種はさも生物学的にくっきり決まっているかのように見えるけど、実際には植民地時代の白人が唱えた社会的通念とも言える。
彼女の主張は生まれ持った特性ではなく自認する特性をアイデンティティとしたいというもので、言ってみればトランスジェンダーと重なるようなものに思えてきた。ただ、トランスジェンダーの場合は本人が後天的に選んでいるのではなく初めからその入れ物が違う、違和感があるということだと理解しているけど、彼女のケースは後から本人が、こういう言い方が合っているかわからないけど、別の意図をもって選んでいると感じた。生まれたときそれぞれに原則として性器を基準に与えられる生物学的性別と違って、人種や民族というのは個人だけじゃなく血のつながりのある家族や先祖から連綿と続いていて一人だけのものではないとも言える。人種の問題は常に何代も何代も前からの問題でこの後も何代も続いていくからこそ重く複雑なこともあって、個人個人に付与される性別と同列に語るには背景が違いそうに思う。

黒人女性の一人が「あなたは黒人女性として自認するための条件を満たしていない。黒人差別の被害に遭いながら苦しんで自分を獲得していない」「自分の肌の色や体の形を憎んで、受け入れていく段階を通っていないし、理由なく車を停められたりしない」と言っていて、ちょっと驚いた。
結果的に、現実の社会ではそうなのかもしれないけれど、「肌の色」のような目に見える特徴ではなく「差別を受けたこと」が条件になるのは、人種が社会的通念によるものである証左の一つになり得る(差別を受けたら黒人として認められるのだろうか?)し、そもそも本来であればない方がいい条件だ。「苦しまなければ自分たちの仲間に入れない」という言い方はその苦しみを肯定するものにならないか?レイチェルが糾弾されるのは「自分たちが投げ捨てたいと思ってるものを彼女が喜んで拾ってしまったから」という台詞もあった。

女性として生きたい生物学的男性がいたとして、彼女が子ども時代に例えば男として生きてたから性差別を受けなかったことや例えば生理で苦しんでいないことを「通過儀礼を受けていないから女性として認めるのは相応しくない」とわたしは思わない。差別を受けてないから、肌の色や自分の体の形を憎んだことがないから黒人女性として認められないって言う言葉に、黒人女性の条件ってそんなところにあるの?とわたしは思ったけど、ただやっぱり黒人女性として生きたことがないからわからない。

男性と女性の社会的立ち位置に比べると、白人と黒人の立ち位置はやはりだいぶ違う。黒人でしかも女性に生まれることで受けるスティグマはその立場に立った人たちにしかわからない重さがあるだろうし、ちゃんと理解するにはわたし自身の勉強が足りないなと思った。黒人女性であることのアイデンティティとスティグマが分かち難いというのは紛れもない彼女たちの実感なんだと思う。レイチェルが黒人差別を自分に向けられた時に「本当は白人だ」というカードを使わずに立ち向かう覚悟があるかというと、そこまでの重さを引き受ける覚悟があるのかはわからなかった。

彼女の実際の話は、掘り下げるともう少しレイヤーがある。
まず彼女の両親は強い保守キリスト教徒の白人で、実子の彼女と兄以外に黒人の養子がいたが、両親と兄はその子たちに凄惨な虐待をしていた。彼女自身も虐待を受けていて「自分はアフリカから連れて来られた黒人奴隷で、白人たちとは違う」と信じ、兄弟たちを虐待から守ろうとしながら育っていて、白人で血のつながりのある家族とより黒人で血のつながりのない家族と強い絆があった。現在も両親と兄とは没交渉だけど他の兄弟とは繋がりがあり、法的にも一部の兄弟の保護者になっている。

彼女にとって白人のステレオタイプは彼女の両親や彼らが望んでいた白人女性の姿で止まっているような気がした。自分が「白人だ」と認めることはそういう人間になるように感じるのかもしれない。
また、彼女が作り上げた黒人としての自分像はあくまで想像上のもので現実には白人として育ってきているわけで、彼女が想定する以上の現代社会での苦しみと誇りが黒人の人たちにはあり、それを彼女は共有していない。

話を聞くに連れどうしても「白人でありたくないがために黒人を装っている」感じが際立ち、まるで自己イメージの世界に一人でいる感じがした。「グループ」の一員になるためには見た目か内面か目標か、なんらかの共通項を持って連帯する必要性と動機があるけど、彼女にはそれが薄いかもしれない。人種のトランジションが可能かを語るには、彼女の物語はあまりにも個人的過ぎ、自己都合が過ぎると感じてしまった。それは番組の作りのせいなのか、それとも彼女自身が十分に言語化出来ないからか。

グループのために働くのに必ずしも当事者である必要はなくて、アライになればいい。現代社会で有利に使えるカードを持っていてグループのためにそれを使えるなら、それを使った方が目的には役立つ。白人であると認めても、自分のなりたくない白人像にはならずに、自分なりの新しい良い白人になることも出来る。でもそうするには彼女の場合は自分の中で育てた自分像を守る必要があって、自分が白人であることをまっすぐ受け入れられない理由があるんだろうなと思った。


わたしに彼女を裁いたり決めつけたりする権利はない。これを問題として考えるには白人や黒人として生きるか、その分類が強く影響している社会の人の話をもっと聞かないとわからないなというのが感想だった。人種の話はいつも最初の印象がだんだん話を聞いているうちに薄れてきて、深く広く思ってた以上に複雑に物事が絡んでいることがわかって呆然とするっていうことが多い。