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about something too important to be taken seriously

自分の性別を選ぶ

今から15年くらい前だったと思うけど、映画関係の仕事をしている友達がチケットが余ったけど興味ある?とアジアンクィア映画祭に誘ってくれて、わたしは映画は好きだしアジア映画、とくにクィア関連の作品は必ずしもどこでも観れるわけではないので喜んでついて行った。

 

参加者にはアンケートが配られたので、映画を見終わって答えようとして、わたしは性別欄にたくさん選択肢があることに気づいて驚いた。そして、クィア作品を扱う映画祭なんだからそりゃそうかーと思って自分に当てはまるものを探して、そんなの今まで考えたこともなかったな、と思った。
たくさんの選択肢を見ながら「間違ったものに丸をつけないようにしなきゃ」というようなことも思ったのを覚えてる。間違ったものってなんだろう?自分の無自覚さと、無意識に持っていたかもしれない排他的な気持ちに気づいてドキッとした。わたしは「クィア作品も見る偏見のない自分」に特別感を見出していなかったか、いざ自分ごとになったら、自分の関わる世界の一部として、というか自分自身はどうなのかということに対して、ちゃんと考えたことがなかったんじゃないか?ぐるぐる考えながら一生懸命書いてアンケートを出して外に出た。もう何年も昔のことなのに、そのアンケートの紙の感触と出口まで歩いたときの絨毯の感触を今もすごくよく覚えている。

 

その頃のわたしは、生まれ持った性別に違和感を感じる人や同性が好きな人もいるし、そういうのを決めつけたくない人もいるというざっくりとした知識はあった。でもフィクションでしか触れたことがなくて、自分の生活の一部として考えたことはなかったし、わたしが「突然聞かれてもわからない」「この答えで本当にあっているかわからない」と感じたような気持ち、「男性/女性」というわたしが選ぶことにとくに躊躇も考えもなくスルーしてきた日常的によくある問いに対して、困ったり、嫌な気持ちになったり、そんなの自分でもわからないと感じる人がいるんじゃないかと初めて気づいた。それ以来いつも性別欄を選ぶたびに少し引っかかる。生命に関わる場面ならまだしも、これを聞いた人はどんなつもりで聞いているんだろう?どのくらい考えてこの問いを入れ、答えは何に使われるんだろう?と考えてしまう。今わたしが答えているものと同じものに、答えたくないけど仕方なく二つから一つを選んで答える人がいるんじゃないか。こんなの単なる慣習で聞いてるだけでデータを取ってもその項目は使わないかもしれない。なぜこんなに簡単に聞くんだろう?と思ったりする。なので自分で仕事上誰かに性別を答えてもらわざるを得ない時は最低でも「その他」を選択肢に作ることにしている。例えその他を選ぶ人がいなくても、選択肢が必ずしも二つではないと思ってる表明くらいはしたくて。

 

個人の性別についての呼ばれ方を考えるとき、生物学的性別(sex)と社会的性別(gender)、それとセクシュアリティ(sexuality)、つまりどういう人に性的に惹かれどう行動するのかみたいなことがあると思う。わたしは女の子として生まれて戸籍にもそう記載され、女子校出身で性別を聞かれたら自分を女性と答え、男性のパートナーがいるので、女性シスジェンダーヘテロセクシュアルといえると思う。

でも、15年くらい前アジアンクィア映画祭から帰ってきてその3つについて初めてよくよく考えてみた時、それまでの人生で性別に違和感を持ったことがなくてもいざ把握しようとすると思っていたより難しいと気づいた。まず、はっきりしてると思ってた生物学的性別ですでに引っかかった。正確に把握するにはどうするんだろう?どちらの性器がついているかで決めるんだろうか?性器が両方ある人や発達が不十分な人もいると聞いたことがあるし、形や機能には個人差があるからいざ決めるとしてはっきり二種類ではないはずだ。生まれたときに判断されてそれが戸籍に載るはずだけど、一般的にどのくらいわかりやすさに幅があるんだろう?生まれた時に女と判断されたんだろうし女子校にいたし自分でもそう疑っていなかったけど、かと言ってわたしはこれまで生物学的に女性かどうか確認された覚えがない。体内の生殖器にも男女差があるけどそれで決めるんだろうか?じゃあ病気などで臓器をとった人は?染色体にはxとyの別があるから正確に把握するなら染色体だろうか?染色体にも個体差があるはずだけど、なんらかの数値の基準があるんだろうか?わたしは生物学的に何パーセント女性なんだろう?基準があるとしたら、何パーセント以上からが女性なのか(事実、生物学的性別もじつは正確に二種類に判別するのは難しいらしいということが世界的に年々わかってきている。スポーツの大会において性別検査がいかに難しいかというのを歴史を追って見ていくとよくわかる)

次に社会的性別。自分自身の生活や性格や振る舞いについて生物学的要素を横に置いて考えてみると、服装はブルーやグリーン、モノトーンなど寒色が好きでピンクは苦手だし、スカートは嫌いだった。どのくらい「男らしい」服装から離れていてどのくらい「女らしい」服装に近いだろう。おもちゃ売り場で女の子向けに売られている人形やぬいぐるみよりも、昆虫を捕まえたり恐竜のおもちゃで遊ぶ方がずっと好きだった。嗜好が性別を決めるなら男の子のおもちゃが好きなら男の子なんだろうか?修道院の手すりをシャーーッとスカートを土台にして滑って逃げたり、水たまりにザブザブ入って革靴を駄目にしたり「女の子らしい」とは言えない振る舞いでよく叱られた。サラダの取り分けなんてバカバカしいと感じるしやったことがない。考え方や性格や振る舞い方について考えるにつれて、どの項目も完全にすべてが「女らしい」には当てはまらない。じゃあ男かというと、そうとも思えない。男だと認識したことはないが、かといって自分が社会的にどのくらい女としての規範にはまるのか、正確に把握しようと細分化するたびに曖昧になり、確信が遠ざかっていく。

最後にセクシュアリティを考えて、なるほどいよいよ難しいと思った。恋愛においてわたしは自分から誰かを好きになることはなく、好きだと言われて初めて考えることばかりだった。たまたまわたしを好きだと言う人は男性だけだったけど、じゃあ女性に言われてたらどうだっただろう?自分は男性だけが好きなのか考えてみるとわからない。むしろ女子校時代に憧れの先輩がいたし、女性に対してきれいだなかっこいいなと思うことがあるけど、性的に惹かれていたのではないと断言できるか考えると自信がない。わたしが最初に人に対して性的興奮を覚えたのは女性だった。知らない男性の裸を見てとくに興奮しない。むしろ女性の裸の方が見たいくらいだけど、それがどのくらい男性優位社会の影響で、どのくらいわたし自身の願望に基づくものなのか、わからなかった。男性としか恋愛をしないのも、男性としか性的関係を持っていないのも、結果的にそうだったとしか言えない。誰かに心惹かれる理由を考えたとき、理由の一位は相手にペニスがついているからではないし、自分の感覚と社会的文化的学習の結果は混ざっている。社会が偏っていたら、そこには偏りが生じるのではないか?

 

”concept of fluidity really is a part of everybody’s everyday life, but we maybe don’t always recognise that.”  
フルイディティ(性的流動性)という概念は、全員が気づいているわけではないというだけで、実はすべての人の日常の一部にある 
- Cortney Act

 

この言葉が響くのは、わたしが性別について考えたときに感じたことが言葉にされていたから。わたしたちには思っているよりわかっていないことがあり、掴もうとしている性というもの自体、じつは曖昧ではっきり白黒分かれていないものだと思う。いつだったか若い世代ほど自分の性別について「ノンバイナリ」「フルイド」と捉える数が増えていると書かれた記事を読んだ。うまくリンクが見つけられなかったのだけど、世の中にある考え方や分け方を知れば知るほど、そして自分のことを真剣に知ろうとするほど、決められない決めつけたくないという感覚になるとしたらそれにとても共感するなと思う。

「考えたことがないということが、特権を持っているということ」だという。マジョリティに属していると多くの場合トピックについて考える必要すらない。より深く何度もそのことについて考えるのはマジョリティから外れたときや外れた人にばかり課せられる。それなのに、考えたこともないトピックについてマジョリティはさも何かを知っていて自分に判断力や権利があると勘違いし、実際にはよく知りもしないで判断を下しているんじゃないか。考える必要がなかった人ほど、本当は自分から学ぶ必要があって、よくよく考える必要があるんじゃないかと思う。