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about something too important to be taken seriously

ヴェルディ「イルトロヴァトーレ」★☆☆☆☆


ミラノスカラ座にてイルトロヴァトーレ。
今回は終了時間が危うそうなので一泊でミラノに行ってきた。

今回は若手イタリア人指揮者のルスティオーニが振るということと、
ルーナ伯爵役でレオヌッチが出るということでチケットを買ったのだけれど、

「レオヌッチは出演日全キャンセル、
今後のキャリアにおいてもうルーナは歌わない」
というショックな発表が公演初日にスカラ座サイトで発表されていた。

少し前トリノで今作の一部をプログラムに組み込んだヴェルディガラがあって、
当初はレオヌッチがキャスティングされていたのに、
日が近づいたらいつのまにかポスターのバリトンがルカサルシに入れ替わってて
オペラ前に聴きたかったのにとがっかりしていたのが、一生聴けない羽目に…

今のヌッチがリゴレットや椿姫、ナブッコなどで演じるような「父親」ではなく
女性をライバルと競うルーナ伯爵をどうやるのかに興味があったのに
「もうこの役は合わないから」という理由でキャンセルだなんて…
ちょっと無理っぽくない?と思ってたからこそ逆に見たかったのにーーー

しかし、物語自体は奇妙な物語なので舞台で通して観たいし、
演出はクラシックに近い豪華な舞台をやるウーゴデアナ。
ヌッチは出ないけれどマリアアグレスタとマルチェロアルヴァレスは出るし、
なによりルスティオーニの指揮も楽しみ。
モチベーションはなんとか保って、幕が上がった。


が。
ここ最近見た中でもかなり悪い出来。非常に消化不良だった。
星一つは舞台装置への星。

まず前奏曲からルスティオーニがすごく…だめ…
ヴェルディの重厚感がなくて表面をそわそわ撫でている感じ。
公演も半ばを過ぎて反応の芳しくなさに意気消沈していたのか
(後から初日に大ブーイング浴びたと知り、それもあったのかも)
とにかくテンポが必要以上に速く、音が軽く、終始焦ってソワソワしている。
もう早く終わりたい!とオケ全体から声が聞こえてきそうだった。
残念ながら最後までそうでぜんぜんヴェルディを聴いている気がしない!
若い=浅い、というステレオタイプ的なことをしみじみ思ってしまった。



そして個人的にもう1人の戦犯はアズチェーナ役のセメンチュック。

アズチェーナは先代ルーナ伯爵に母親を火刑に処せられたのを見たばかりか、
誘拐していた彼の子どもを同時に火にくべたはずが誤って自分の息子を火にくべた、という過去を持ち、物語本編では一貫しない言動をする捉えづらい役柄。

たとえば誤って息子を殺した後、怒りにまかせて誘拐した方の子どももその場で殺していてもおかしくない。むしろ殺そうとしていたのだからそっちの方が筋が通っている。なのに、彼女は結局この子どもを殺さないで、立派に成人するまで育ててしまう。殺すチャンスは何度もあるだろうし、彼女には十分そうする動機がある。男の子を殺すならなるべく力のない小さいうちの方が好都合なはずだ。なのにしない。屈強な若者になるまでしっかり育てている。

殺さないまでも虐待したり、ネグレクトしたりも考えられる。そもそも殺そうとしていた子どもにまっすぐ愛情なんて注げるだろうか?なのに物語上彼女は「愛情深い母」という描写があり、息子の方も「本当の親子じゃないかも」という疑いも持たずに成長している。実際の親子でも態度や状況によって抱いてもおかしくない疑問と思うんだけど、言われるまでみじんも抱いてない。

肉親を失ったアズチェーナが完全に彼を「自分の息子なのだ」と思い込んで育てた、とすればまあ納得できる。記憶を都合のいいように修正することは人間ならある。まして忘れたいような強烈な出来事だ。
死んだのは憎きルーナの子、手元にいるのは自分の子、と言い聞かせそれを信じてしまったとも考えられる。

しかし、よりによって彼女は成長した息子に急に「母が火あぶりになった時まちがえて自分の息子も火にくべた」とか言い出す。つまり、彼女は記憶を修正してはいなくて、ちゃんと覚えている。となると彼女の中でどう折り合いがついていたのかわからなくなってしまう。しかもなぜ息子に堂々とネタバレしてしまうのか…


彼女がこの息子を育てる動機はわたしが思いつくパターンとしては二つ。
1、自分の息子の代わり
2、復讐を果たすための手札

まず、物語の結末ではきっちり息子を彼の双子の兄である現ルーナ伯爵に処刑させ、「あれはお前の弟だよ!」と告げることで母の復讐としているので1だとするには厳しい。自分の息子と思い育ててきたのだとしたら、息子が殺されるのは耐えられないはず。処刑されるより前に彼女が事実を言いさえすれば、殺されることにはならなかったのにそれをしないってことはつまり、息子が死んでもかまわないってことだ。第一、愛する息子に「本当の親子じゃない」なんて言ってショックを与える必要ないし…

でもパターン2もいまいち正当性に欠ける。
手札として手なづけるなら「本当の親子じゃない」なんて匂わせてもなんの利もない。そして、それを言われるまで母になんの疑問も持たない息子が説明つかない。息子は母を信頼してしまっているし、怯えている様子も無条件に従うこともとくにない。また、手札として育てるなら最終的に殺すことも鑑みて距離を置くのではないか。あまり情が芽生えてもいけないので冷たい母になるのではと思うんだけど、けれどもこの母はあくまで「愛情深い母」なのでそこ辻褄が合わない。

アズチェーナが非常に残酷で狡猾で、彼に疑問を抱かせないように注意を払いながら長年かけて手なづけ最終的に復讐の道具として使うパターンもありうるが、それだとそもそも子供取り違えのうっかりミスと、口を滑らせた感じで本人に「実の母ではないのでは」「自分はルーナ伯爵の子では」と思わせている迂闊さが解せない。



となると、常に1と2のあいだで葛藤を持ちつづけていたのだろうか。
でも実際、人間がこんな思いを抱きながら正常な精神を保っていられるかなあ…
トラウマを抱え、復讐心に燃えて他人に恨みを抱えたまま生き、敵の子を育てる。火あぶりで自分の子どもをくべてる時点でどうも詰めが甘いというか短絡的なので、場当たり的にさまざまな感情を行ったり来たりしながら生きているとも考えられるけれど、そもそもジプシーの中でも「またあいつなんか言ってるよ」的な扱いを受けているので、気が触れている設定でもいい気がする。


というか、
アズチェーナは相当緻密に練らないと正常な人物として描写するにはとっちらかりすぎ。いっそもう頭のおかしい老婆として描くのがいちばんしっくりくるのでは。


しかし!!


今回セメンチュックが演じていたのは、
他人の言いなりになる弱々しい老婆だったのである…
とくに頭のおかしい感じの演技はなく、自信なさげに息子に接し、弱々しく逮捕され、突如復讐。弱々しさは火あぶりの一件で精神的打撃を受けて生への執着を失くしたあらわれ、復讐心は唯一命をつないでいたものという解釈なのだろうか。

まったく同じ舞台、衣装、演出で10年前にスカラ座でやったときにはもう少し怒りに任せた強いアズチェーナになっているのでデアナの解釈が変わったのか、セメンチュックの演じ方なのか…

アズチェーナの立ち位置がハッキリしないと、そもそもある内容のおかしさが目立ってしまう。物語の軸になっている彼女の復讐への動機があやふやだと、まわりの登場人物はどんなにがんばっても結局なんか巻き込まれてみんな損した、みたいになってしまう。そしてこの夜はまさにそうなっていた。

ヴェルディの音楽も指揮不発でぜんぜんまったく助けにならないし、装置そのものはスカラのプレミアガラで使われたものなのでちゃんと力が入っているはずでルーナ伯爵にかけて満月を模した照明が背景で
ペンキのうっすら塗られた透き通った布越しに光るのは綺麗だったけどでもぜんぜん胸に来なかった。美しさが虚しい。箱がよくても中身が薄いとだめというのはロランペリのマノンでも体験したけど今回もそうだった気がする。

アグレスタはメゾから転向しただけあって低音がとにかくよくて、低音の安定したソプラノっていいなあって思ったんだけど、どうも声が暗くてむしろ彼女のカルメンが聴きたいと思ってしまう。
あと、これの前にヴェルディガラでバルバラフリットリが歌うのを聴いていて、フリットリはけして調子がよくなさそうだったにも関わらず、家に帰ってから耳に蘇るのがアグレスタではなくフリットリの声で、調子悪くても耳に残す力がフリットリはやっぱりすごいんだ…って実感させられた。

そしてアルバレスはたしかに上手かったけどモチベーションが低いのか「7割の力で歌っています」という雰囲気がびんびんしていて終始無難だった。トリノのヴェルディガラとのあまりに激しい落差。本気が見たい。


しかしイルトロヴァトーレはもともとの音楽はいいし、物語の辻褄が合わない分解釈を見るのがおもしろいのでまた別の演出のものを見たい。

ちなみにyoutubeに2000年スカラの開幕を飾った同じウーゴデアナ演出で
ムーティ指揮、ヌッチ、フリットリ、リチトラ、ウルマーナ出演バージョンが上がっていた。
最初の音から別物で愕然。スカラなんだからこういうのを見せてくれないとー…!
http://youtu.be/dsu9Aj7leG0


あとこれ今年に入ってブログ更新初だった。
トリノであったヴェルディガラについてももうかなり忘れているのではやめに書きたい…