utopiapartment

about something too important to be taken seriously

きれいなものを見る

私の好きな映画「ワンダーランド駅で」という作品の中に「日に一度、なにかうつくしいものを見つめるのは大切なことだとおもう」というようなセリフがあって、初めて観たときからずっと心に残っている。

ちょうどいま習っているイタリア語の授業中に「bello(beautiful)の意味は?」と聞かれて答えに詰まったことがあった。
聞かれているのは単に意味を理解してるかどうかで質問は反対語を導き出すためだったのだけれど、わたしには質問を真に受けるくせがあってつい「美とは何か」について黙って考えたあと「それは難しい質問だと思う」と言った。例をあげようとしても誰もが認める美しいものなんてこの世に存在しない気がしてなんとも口が重たくなってしまう。「花…女性…アート…」思いついた例を口にしても、花はともかく「すべての女性が美しいのか」「すべてのアートは美しいか」と考えるとちがう。それを聞いて先生もたしかに美っていうのは人の好みによって変わるものだって言ってしばらくそんな話になった。(そして、でもいまはそういう話じゃないから、と本題に戻った)

美って世の中にあふれた最もありふれた単語のひとつだ。
しかも少なくとも愛とはちがって大体は目にも見えるし、専門家や多くの人に時代をこえて美として認められているものもある。黄金律を満たし数値的には完全美、というものもある。美に関して語られるものは昔も今も、この瞬間も、山のようにある。でもいざ美そのものを定義しようとするととても難しい。
「見る人の目に宿る」とはよく言ったもので、人によってなにを美しいと思うかも違えば、自分が以前美しいと感じたものがいつまでもそうかというと、そうでなかったりもする。美はとても曖昧で刹那的で捕まえ難い。うつくしいと多くの人が認めるものが自分の目に絶対的にうつくしいわけではないし、自分の好むうつくしいものが、いつでもその日の自分の心に届く美とは限らない。おそらく、あるものを見たり聴いたり感じたその瞬間に「うつくしい」と自分が受け止めたものが「美」なんだと思う。意識して感じるより、たぶん感じてからそれに気づくもの。そして、自分が今なにを美として受け止めるのかは自分の状態をよくあらわすだろうし、いまなにかを美として受け止めている、と気づくことは自分の感覚に意識的になることだろうともおもう。

わたしにとって「日に一度、なにかうつくしいものを見つめる」ということは二度と戻らない瞬間瞬間を掴む、ということでもあり、何かに心を動かす余裕をいつも保っておきたい、ということでもあり、自分自身の心の動きに意識的でいる姿勢でもある。特別素晴らしい景色を観に行ったり美術館へ行ったり、世の中で美しいと言われているものを積極的に見る努力はしたい。多くの人を動かすものには力があるのはたしかだし、それを見て自分の心がどう反応するのかには常に興味がある。

でも、そういうんじゃなくても、美はたぶんあちこちにある。それを感じ取る心があって、その心に気づくなら、どこにでもある。たとえば大切なだれかの手に触れてそのあたたかさに心がじーんとなった瞬間であったり、立ち止まって見上げた月がたまたま満月でなんとなくいつまでも見ていたい気持ちになったり、それらも美なんじゃないかなあと、そんな瞬間瞬間も大切に抱きしめていたいなあと、おもう。


そういえばこのあいだの週末、郊外にある美術館で企画展示されているイギリスの現代アーティスト、ダミアンハーストの個人コレクションを観に行った。この展示では、ダミアンハースト自身の作品は展示されていない。彼個人が趣味で集めた他のアーティストたちの作品が並んでいる。(それだけで企画展が出来るくらいだから、けっこうな量の作品がある。普段どこにしまってるのか謎だった。自宅?)そして、彼個人が好きで集めているだけあって、作品を観ていくほどにくっきり趣味が出ている。彼の作品自体わかりやすいテーマではあるけれど、並んでいるものも動物や骨格を素材にしたもの、ホルマリン漬けの動物みたいに水槽にバスケットボールが浮かんでいるもの、整然と並べられたメタリックな生活用品のインスタレーション、ダミアンハーストの作品と地続きに感じるものがかなりあった。

なにに美を感じるかはその人をあらわす。美そのものはつかまらなくても、何に美を感じたかを重ね合わせていけば、その人にとっての美というのはいつか定義出来るのかもしれない。