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about something too important to be taken seriously

ドヴォルザーク「ルサルカ」★★★★★

久しぶりにどうしてもブログに感想を残さなくてはと思ったルサルカ。
ドヴォルザーク作曲、METによるメアリージマーマン演出作品。

この作品はアンデルセンの人魚姫を元にしているものの、
描かれているのは童話から一歩踏み込んだ愛することの業。
全編チェコ語だったので耳慣れない言語に睡魔が襲って来て、
二幕までは正直かなり眠気との戦いだったのだけど、
ラストでまさに冷水を浴びせられたように目が覚めて釘付けになった。だいぶ遅いけど。

まずこのセットと衣装の美!!
水の精であるルサルカの住む世界をあらわすのに水辺ではなく
湖のある深い森を中心に据え、大きな月がのぼる神秘さを表現。
このセットで一幕で歌われるのが有名なアリアでよく単品でも歌われる「月に寄せる歌」、
ルサルカ役のオポライスはルサルカは世間知らずでピュアに演じられることもあるけれど、
他人を死に追いやる危険性も持っているとインタビューで話していて、
まさに心許ない儚さとともに深い声が妖しい感じも醸し出していてゾクッとした。
美人で表情があまり変化しない虚ろな感じがルサルカ役にすごく合っていたと思う。
下まぶたにメタリックなブルーのアイラインが引いてあって、それもミステリアスをすごく出していてよかった。このオペラ、魔女イェジババのカラコンも効いてたしメイクもすごく良かった。

その、ルサルカが人間になるために力を借りる魔女イェジババ。
ダークファンタジー絵本に描かれそうな実験室で薬品らしき小道具を手に、
体が不完全に猫やカラスやネズミと混ざった人間の姿をした手下たちを従えて魔法を使う。
イェジババ役のジェイミーバートンは豊かな体躯からよく響く輝きと優雅さがある声のメゾで、
悪役を心から楽しんで演じていてめちゃくちゃファンになった。
彼女がチュリムリフックと魔法の言葉を唱えるアリア、劇中でいちばん好きだった!
https://youtu.be/SvMl6-cLiwg

人間の姿となったルサルカは、妖精たちの世界とはちがう、
本能と感情の渦巻く人間の世界であり、王子の住む場所である宮殿にやってくる。
この宮殿シーン、後ろで踊る集団のダンスが官能的で練られていてやたらいいと思ったら
NY拠点の若手コンテ振付家と彼のダンサーたちを連れてきて入れていたらしい。どうりで!!
宮殿ではすべてのセットと衣装が赤をテーマに染まり、その中に形だけ同じだけれど
一人ひんやりした水色の衣装を纏うルサルカの異質さがとてもわかりやすく浮く。



水の精である自分を捨て人間の姿になったことにより仲間たちのいる水の世界に帰れないルサルカは、
しかし人間たちの集まりの中でも圧倒的に浮いてしまい、人間として生きていくことも出来ない。
好きになった王子からは情熱を感じないと言われ捨てられて、最後に思いは通じるものの、
ルサルカにキスをした王子は呪いにより命を絶たれ森の中で死に、ルサルカは一人残される。

水の精としても人間としても生きられず、元が不死身であり人間として死ぬことも出来ず、
ラストシーンで後ろを向いたルサルカは王子の形見の服を羽織り、森の中にふらふらと消えていく。
王子は生き、人魚姫は泡となって消えるアンデルセンの童話の結末よりよっぽどダーク!
そして重苦しい!!すてきだった…

ドヴォルザークの音楽がまた、雑な言い方をするといろんな作曲家のいいとこ取りで、
優雅でもあり劇的でもありお伽話的な楽しさもあってとってもよかった。
他の出演者も全員よくてものすごい当たり回。
劇場行きたかったわー



休憩中に流れた演出家ジマーマンのインタビューで、彼女が
「好きになった相手のために大きな犠牲を払ってまで人間になっても、
ルサルカは王子から情熱を感じないと言われてしまう。
不完全な偽りの姿で愛そうとしても、結局は心を開くことができず、
情熱を傾けることが出来ないのではないか」というようなことをいっていて、
その瞬間、美女と野獣について考えた。

ディズニー作品の中で最初に強く共感出来たプリンセスはわたしにとってベルだった。本好きだから。
けれどもどうしても最後いきなり見たこともない王子になってしまうのが許せず、
その王子にやぶさかでない態度のベルが理解できないと思っていた。

frozen(アナと雪の女王)が公開され、プリンセスの系譜を思い返したとき
ベルについて考えずにはいられずパリでミュージカル上演があったので見に行ったのだけど、
やはり大人になってもわたしにはその部分が納得できなかった。舞台は素晴らしかったけど。
外見まで含めてその人なのではないの?醜いままでもいいじゃないか。

でも、今回ルサルカを見て今まで考えてみなかった野獣側の視点について考えさせられた。
そもそも野獣は城に訪れたみすぼらしい老婆の姿をした仙女を助けることを拒絶し、
美しい姿で現れたらきちんと遇するという態度を罰せられ呪いをかけられて野獣の姿にさせられる。
自分の犯した過ちとはいえ、呪いに囚われた身であるのはたしかなことだ。
つまり、水の精でありながら声と引き換えに外見上人間になろうとしたルサルカと同じ、
野獣もまた「不完全な偽りの姿」と言えるのかもしれない。

たとえベルを好きになったとしても、偽りの姿ではほんとうに心を開き情熱を傾けることができないとすれば、物語の終わりで元の姿である王子の姿に戻ってから彼はやっとほんとうに心を開いてベルを愛することが出来るとも言え、野獣視点で見ればこれは心を閉ざし他者にかけられた呪いに囚われていた自己が解放されて、愛することが出来るようになるまでの物語だ。
実際、野獣側からは愛を告白できないのはルサルカと同じ縛りのように思える。
偽りの姿では完全に愛することがまだ出来ない。劇中で愛することが出来るのはベルの側だけなのだ。


「本当に美しい姿になったのかどうかは問題ではない、美は愛するものの目に宿る」と
フランスの童話では美女と野獣にしろ似た部類の巻き毛のリケにしろ最後に付け加えられたりしていて
文字通りの美女、文字通りの美しい王子である必要はないというのを読んだことがあるけれど、
野獣というのも見方を変えればほんとうに文字通りの野獣の姿かどうかは問題ではなくて、
己の内なる醜さを突きつけられた王子にとって鏡に映る自分が世にも醜い野獣の姿だったのかもしれない。その醜い姿を晒して人に接することは難しい。
誰よりも自分が自分を嫌っているのだから少しばかりの好意など信じることはできない。
でも自分の醜さを認め、その醜い自分を愛する他者の存在を受け入れたとき、醜い自分に良さを認め、初めて野獣は自らの呪いから外へ出て、等身大の自分の姿に戻ることが出来る。
物語の結末は野獣が愛することを始められるスタートとも言える。
そう考えたら、あの結末を完全に否定する気持ちは少なくともやわらいだ。

今度の実写版ディズニー美女と野獣を見たらどんなふうになっているのか、
どんなふうに感じるのか、楽しみだな。