utopiapartment

about something too important to be taken seriously

ヴェルディ 「ナブッコ」★★★★★+

イタリアではとくに愛される演目のひとつナブッコ、なおかつ今回はイタリアの誇る名バリトンレオヌッチ出演。いつもより高値設定だったけど頑張って予約した。案の定、客層がいつものスカラ座とは大違いで、イタリア人の年配の観客でぎっしり、普段より高い車椅子率。完全に浮いているアジア人の若者2人(わたしたち)。でも負けずに観る!


物語は旧約聖書のバビロン捕囚が題材。
バビロニアの王ナブッコがユダヤ人たちを捕えバビロニアに捕囚、神を嘲った結果雷に打たれ王位を追われるが赦しを乞い、ユダヤ人たちを返すという話。じつは奴隷の娘ながらそれを知らず王位を狙う長女と、ユダヤ人と恋に落ちユダヤ人として生きることを選ぼうとする次女の2人のナブッコの娘が物語に絡む。

ヴェルディはナブッコの前に二つの作品を作って失敗している上、妻と二人の子どもを失ってひとりぼっちになるというドン底に追いやられている。そのまま絶望にやられてしまったら今日のヴェルディの曲の数々はなかったわけで、音楽への意欲を彼に取り戻させたナブッコという物語の力ってすごい。こんなに心を揺るがす音楽を作曲するヴェルディはすごい。その根源的な物語とシンプルな作り、わかりやすく観衆の気持ちを高揚させる音楽、たたみかけるような合唱の迫力。ヴェルディが始めて名声を得たことを心底納得させられる作品で、今のところオペラではこれがわたしはいちばん好き!

イタリアの第二の国歌といわれる"Va pensiero"(ゆけ我が想いよ、黄金の翼にのって)の歌われる三幕では、幕の上がる前、音楽が始まる前にすでに観客席が盛り上がってブラボーという声と拍手があちこちから上がっていた。

旧約聖書の世界はキリスト教背景を持つわたしにはとてもよく刷り込まれた心象風景で、イタリア人観衆の心情はよく想像がつく。キリスト教の物語の中で、人が悔い改め神に赦しを乞うというのはほんとうによくくり返されるシーンだし、鉄板と言っていい感動スイッチだ。ナブッコにはあまり見た目に派手なシーンはないし、物語の盛り上がりも劇的ではないかもしれない。でも静かに心の手綱を掴まれて、底から感動が押し上がってくる。そしてじわじわじわじわ包み込んでくる。たまらない。


そして、なんといっても今回の目的、初めて生で観るレオヌッチ。
圧倒された……

今までの自分のオペラの観方は、甘いし浅い!と思い知らされ、自分の中になんとなく形成されていたオペラ観をぼんぼんひっくり返された。なんて気持ちいい驚きだろう!まず登場からしばらくは、あれ?思ったより声が聴こえないかも…と感じたのに、聴いているうちにぐんぐん呑み込まれて行ったこと。「聴こえる」のってボリュームじゃないんだ。幕間になって気づいたらいつのまにか姿勢が前のめりになり、まばたきをわすれて目がめちゃくちゃ乾燥し、息をするのもわすれていたみたいではあーっと大きなため息が出た。

今までわたしは歌い手の声の美しさやパワーのある声量に惹かれている部分が大きかったと思う。劇場に響き渡るような声量はやっぱり物理的に圧倒されるし、美しい声には自然と聞き惚れてしまう。でもレオヌッチを聴いて、ああオペラってそれだけじゃないんだ!って体感した。歌い始めから終わりまで、舞台の最後までけしてぶれない安定した音、バリトンだけれど高音になっていく流れのたまらないうつくしさ、はっきりと言葉がひとつひとつ聞き取れるので明瞭に伝わってくるメッセージ。声楽の細かいテクニックはわからないけれど、彼が意識してひとつひとつの音をコントロールしているのがわかる。雑音がしない。呼吸が気にならない。知っていたらそういう感動もあるんだろうなあ!


もうひとつ衝撃だったのは、たまたま歌っている、という感じがしたこと。

ふつうに考えたらオペラは不自然だ。
ささいなことも長々と歌にする。死にそうになったときには自分は死にそうだと苦しむ様子を見せながらも長々と歌う。歌っている場合じゃないのに歌う。それでも、「だってオペラだから」と思っていた。それが、その不自然さが、レオヌッチにかかるととても自然になってしまう。たまたまナブッコという人が気持ちを歌にして語るタイプの人だった、という錯覚を覚えた。あまりに自然に話しているような歌だったのだ。観客ではなくほんとうに天に向かって話しているような。こんなこと初めてだ。


そして彼のナブッコを見たら、わたしの掴んでいたナブッコという人物像がまったくもって浅かったとわかったことも感動だった。彼はナブッコそのものになった上で、自分の心と向き合い自らを発見しているように演じているようで。優れた演技という印象もなく、憑依している感じでもない。ナブッコそのものが自分を発見しているようにしか感じられない。演技というよりもナブッコそのものの心が形になって開かれていて、わたしもそれを前のめりになって、いっしょに覗き込んでいるような錯覚。なんて恐ろしく深い人物表現なんだろう。役の向こう側に、彼は行っている。


最後に、これは今も思い返すたびに凄いなあ凄いなあと思っているんだけど、レオヌッチはたぶん役柄がクラウドみたいなとこに保存されてて瞬時に交信、瞬時に解放できるんだとおもう。なぜならカーテンコールになったとたん、うちの近所のバーでたむろしてるふつうのイタリア人のおじいちゃんにしか見えなくなっていたから…

あんなに舞台上で恐ろしいまでの存在感だったのが、まるで役の魂が抜けたみたいに一瞬幕が閉じただけでふつうの人になっているって、なんなんだろうあれは。役の余韻もなにもなくスパッとただの人に戻ってた。一列に並ぶ出演者の真ん中で、おじちゃんが出演者たちに混ざっちゃってる感じだった。主役なのに。凄いなあ。これいちばんの驚きだったし、圧倒され気圧された存在であるレオヌッチがなんだか急に親しみやすくなってて完全にファンになってしまった。
この、歌ってるときと歌ってないときの人が変わる感じはYouTube動画を見ただけでも一目瞭然なのでぜひ→
http://youtu.be/1IhYXFBfGZU

それと、長女のアビゲイル役を演じたリュドミラ・モナスティルスカ(覚えられない!)、初めて観たんだけどめちゃめちゃよかった。あとから若手だと知ってびっくり。物凄い貫禄、凄まじい迫力とパワー、ベテランのような存在感。なのに力なく悲しみに満ちて歌うピアニッシモも見事に美しくて、最期の演技も真に迫っていて、全然好きなタイプじゃないけど、これはこの人をいろんな役で観たい!



オペラってイタリアの大衆演劇でもあるんだなあって今回感じた。気取ったものじゃなくて、自分たちの心の近くにいつもあるもの、自分たちの文化をうつすもの、そんな風にイタリア人はオペラのこと思ってるんじゃないかなあって思った。だってなんだかとても観客たちの楽しみ方が地に足がついていたんだ。ナブッコの客層がいつもとちがう分、さらにそう思った。これはスカラ座のように世界中から人が集まる劇場とは違い、ほとんどがアボネ客のトリノの劇場でも感じる。イタリアにいる間に、ナブッコをイタリア人歌手で、イタリア人指揮者で観られてよかった。

舞台の終わりに手を叩く時、感動が大きすぎて興奮して叩くとき、いつまでもいつまでもこの時間がつづいてほしいと祈るように叩くとき、儀礼的に叩くときがある。この夜は、おしまいを受け入れられず手を叩けないことがあるのを知った。ここでこのナブッコを観たこと、たぶん一生わすれないとおもう。