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about something too important to be taken seriously

イサムノグチミュージアム

イサムノグチは今までどうもよくわからなかった。

でも、この8月NYへ旅行してイサムノグチ美術館へ行って見方ががらっと変わった。

泊まっていたエリアにたまたまイサムノグチ美術館があって、泊めてくれた人がすごくおすすめ!と言い、
イサムノグチ好きな夫はもうぜったい行こうというのでついて行った。美術館はNYのとても端っこにある。

夫はこの美術館をとても気に入り、かなり長い時間かけて見たあと、どうしてももう一度行こうと言って出発の朝にもう一度行った。
そして この二回目が、突然何が起きたのかわからないくらいすごくよくて衝撃だった。
イサムノグチいいな!もうずっとここにいたいな!NYに引っ越してここに通おう!くらいおもった。
なぜだろう。


この美術館は彼自身が生前住んでいたアトリエを改装デザインして美術館にし作品を配置した場所で、並んでいる作品や配置は変わらない。たぶん永遠に変わらないんだろうと思う。
そういう美術館はここだけではないとはいえ、彼の作品たちの佇まいのせいもあってここはどことなく古いお寺のような雰囲気がする。

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Noguchi_museum065.JPG

一回目は雨で、二回目は晴れていたので、ちがう光のもとでちがう部分が見えたのかもしれない。
いろんな時代の作品を大量にまとめて見るとある程度見方がわかるから、そのせいかもしれない。作品数が個人の美術館にしては膨大だ。前回見て気に入ったものには不思議な親しみが湧いていてもう一度知り合いに会う感じがしたし、そんなにピンとこなかったものを二回目に見たらなんて斬新なアプローチなんだろう!と思えた。
彼の作品はどうも何度も見ることでじわじわ見えるよさがある。

一回目、やっぱりわからないなーと先入観にまみれながら見ていた彫刻の軍団は、二回目には突然ひとつひとつずっと眺めていたいくらいすばらしく見えた。

よく、アート作品の批評でZENとか「西洋と東洋の融合」という文句を見る。
日米のハーフに生まれ両方の国を生きた人にそれはとてもベタな言葉だけれど、
今まで見たどんなものより自然に見事に二つが融合していた。
見ていると、長い時間をかけて洗練された石庭や仏像を見るような気持ちも覚えるし、
同時に他にない新しさ、シャープさ、挑戦的なものも感じるし、
古いものと新しいものの融合でもあるなあと思った。

そしてイサムノグチの作品に共通して個人的に印象的だったことがある。
それは手を伸ばしてこない、ということだった。


時代が違っても人が違っても形態が違っても、
アート作品はどれも大抵これでもかというくらい「見て!」というアピール、
「認めて」「わかって」という叫びのようなものがある気がする。
こちらに手を伸ばして来たり、つかみかかってきたり、 呑み込もうとしたり、傷つけようとしたり。
自分自身の感情の発露、堪え難い衝動、成功したい認められたい欲求、大いなる喜び、 そういうのを活力にしてそれが出来上がった作品からもにじみ出る作品がほとんどなのに、イサムノグチの作品にわたしはそれを感じなかった。
これでもかと手を伸ばしてくる作品が多いのに、ここにあるものたちは伸ばす手がない。


一日にあんまり膨大な量の作品を見るとたいていとても疲れるのに、ここの作品は、いくつ見ても疲れず、むしろ癒されていくように感じる。作品たちは目をつぶって瞑想しているみたいだった。


ほとんどのアートが手を伸ばすのは、それが届くことを作る側がすでに知っているからだ。他人にとって自分の存在が 無視できないものだと、つながることが可能だと信頼しているからこそできる。信じているからこそ望める。

アートすべてが傷を孕んでるなんて言う気はないけど、
人の一生って平坦じゃなくていろんな波がある。楽しいときもあれば苦しいときもある。わかりやすい人とわかりにくい人はいるけど、それは作品にも出ると思う。
たとえば本人が傷ついた時期に作られたアートはこちらにも痛い。 誰かが傷ついていることを認識することでも人は痛みを感じる。強い作品は積極的にこちらに傷をつけようとさえする。


イサムノグチの作品たちはどの時代のものも、一見繊細であやういものでさえ 妙に静かで、安定していて、美しいバランスを保つものばかりだった。
わたしはだからこそ、これは今まで見たどの孤独よりも深いと思い、胸がつまった。
大声で叫ばれる孤独より、まったく語られない孤独の方がずっと深いのではないか。

生きている限り、美を追求する限り、孤独を感じないなんてことはないだろう。
どんなに幸福そうで恵まれていてあたたかそうな人でも、 人生のどこかで孤独とは向き合わなければいけない。
ましてだれも見たことのないものを見て作り出そうとすればなおさらだ。
それを一切出さないというのは、途方もない絶望だと思った。
理解してもらえないとすでに悟っているから、
だれかに訴えられる程度ではないからこんなにも出ないのではないのか。
痛みや恨みや憎しみ、破壊衝動、フラストレーション、そういうものを一切纏わず、 ひたすら静かに、見る人と大地を包むように立つ作品ばかりが並んでいた。

いちばん気に入ったのは"The roar"、うなり声、叫びというようなタイトルの作品。

http://www.noguchi.org/museum/collection/roar

ところどころ岩肌がむきだしになった巨大な灰色の彫刻で爪痕のような部分もあり
猛々しさも荒々しさもたしかにあるのに、こちらを攻撃する気配が皆無だった。 異次元にある作品だと思った。

あまりに気になって、帰ってからイサムノグチの伝記を読んだ。読んでみたらわたしが感じたあの作品たちの静けさが信じられないような激動すぎる人生だった。そしてわたしが「これはとても深い孤独なのではないか」と想像したものを遥かに越えた深い深い孤独を負った人だった。
日本人である父親には最後まで認知されず、有名になってからもアメリカ人であることを理由に日本では作品を却下される。アメリカ人の母には「捨てられた」と思い、日本人であるということがアメリカでの作品の評価に常につきまとう。日本にもアメリカにも帰属できない。
周りに彼を支え彼を愛する人たちはいても、心の底からそれを受容することが出来ない。ひとつの場所やひとりの人に長くコミットすることに強い恐れを抱いて、すぐにあちこち移動してしまう。愛してくれる人を愛し抜けず手放してしまう。


せめて若い時にでも、怒りや憎しみややるせなさや世の中への問いをフルパワーでぶつけて観る人をショックに陥らせる作品をいくつ作ってもおかしくないと思った。
イサムノグチが孤独と向き合ったのが思春期や青年期ではなくもっと前だったからなのだろうか。それとも、
自分をぶつける対象としてではなく美を見ていたからなんだろうか。

ときどき、自らが傷ついたことや自分自身の孤独を花に変えることの出来る大きな器を持った人がいる。
すべてを善に昇華する姿勢、人を信じることが出来なくてももっと大きなものへの信頼を失わずに、より深めていく心。

きっと、とてもさみしく、でもそれ以上に、とても優しい、大きな器を持った人だったんだなあと思った。
心の底が、人へではなくて世界に対する愛と驚きですでに満ち満ちていたのかもしれない。
それが、この作品たちの、大地を包み観る人を包む静かで大きくあたたかい佇まいを生んでいたのかなと思う。

世界中に居場所がなくても、地上のどこにでもある石を通して、どこにいても変わらない真理の追求を通して、つぎつぎに作品を作っていくことで彼は生きていて、その作品たちを自分の持ち物として留めおき、死後自分の望むように展示することで全うしたんじゃないかと思った。

外観も内装も窓の光も作品の配置も庭も、すみずみまで神経の通ったすばらしい美術館だった。
ニューヨークに住むとしたら、会員になって好きなだけ通いたいな。四国にある美術館もぜひ早いうちに行きたいとおもう。


Noguchi Museum (NY)
http://www.noguchi.org/

イサムノグチ庭園美術館(高松)
http://www.isamunoguchi.or.jp/