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about something too important to be taken seriously

ブレイクダンス 「フライングバッハ」★★★☆☆

バッハの音楽にのせたブレイクダンスをやるらしいよ、と夫に誘われてこのあいだの週末観に行った。

会場はまだ入ったことのなかった(そしてそこにあることにも気づかなかった)小さな入口の劇場、テアトロカリニャーノ。

入ってみたらサイズは小さいけれどホールの絵画も鏡のふちも細々ときちんとした細工で、ひとつひとつのパルコも機能的で、緞帳の上には昔は光り輝いていたんだろうなあと思わせる彫刻がどかんとあった。
現代の劇場のように音響や視野に配慮した配置はないし、パリのオペラガルニエのようにこれでもかというギラギラの装飾も、どっちもない。でも丁寧な作り。
主要劇場ではないこういう小さな劇場が隅々まで丁寧に作られていることにわたしは豊かさを感じてしまう。
愉しむために社交のために人々が集まってくる場所として必要とされていたんだろうなあ、昔はほんとうに栄えていたんだなあと、幕が開く前ぐるぐる見渡しながら想像した。客席についてるランプもきれい。これにぜんぶ蝋燭を入れていたんだもんなあ。


(写真は夫からの借り物)


わたしの住むトリノはイタリアと聞いてまず思い浮かべる場所ではないし、数年前のオリンピックでやや注目されたものの、よく知られるのはFiatのお膝元工業都市として栄えそして廃れたという話。

しかし、それよりも昔、じつはフランスとイタリアと
スイスにまたがり王国を築いていたサヴォア王家が王都にしていたところでもあり、イタリアが初めて統一された150年前には最初の首都となった場所だったりする。
だから今では観光客もたいして来ない慎ましやかで斜陽な町なのに、異常な豊かさや豪華さ堅牢さをいたるところに見る。この街が栄華を誇った時代の名残り。
このカリニャーノ劇場の小さいけれど確かな豪華さも、やっぱり昔は栄えていたんだなあという気持ちを強くさせた。
それと、フランスだと昔栄えて今は廃れたという場所はメンテナンス不足で現代では埃をかぶったり塗装が剥げたりタイルが欠けたりしていることがままあるけれど、トリノはどこも今に至るまできちんと整備されている。イタリア人の家の中はどこも驚くほど清潔でピカピカなのだけど、公共の建物も掃除が行き届いてることが多い!これは暮らしてみて感じた意外な発見のひとつ。


観客層はブレイクダンスだけに若い人が多いのかと思いきや、バッハだからなのか関係ないのか年配の人たちも多かった。わりと子どももいた。Tシャツにジーパンの若者とフォーマルに着飾ったお年寄りが混ざって座っているのもバッハとブレイクダンスのコラボゆえっぽくておもしろい。

パンフレットを開けたら日本人女性ダンサーが載っていた。へーと思っていたらオープニングは彼女一人が出て来た。ブレイクダンスではなくクラシックの動き。
それからブレイクダンスの男性ダンサーたちが5,6人出て来て、一人のダンサーに煽られるようにして一人一人が技を決めていく。

舞台全体は予想外にストーリー仕立てだった。
(わたしの理解では)町に遊びに来た女性ダンサーが道に迷ったりしつつ探検、しかし怪しい覆面グループに襲われ、そのグループの1人と恋仲になり、でもDVを受けて距離を置き、仲間たちのとりなしでまたくっつく、みたいな話。
正直ストーリーの内容と女性ダンサーの繊細でナイーブで神経質な感じの役回りと踊りがわたしには受け入れ難くてイライラしたけれど、ブレイクダンスがストーリー仕立て!っていう新鮮さは心に残ったし、やっぱり展開や感情表現は伝わるんだなあ、ダンスは共通するんだなあと思った。


そもそもブレイクダンスは、暴力での抗争が激化したNY郊外で、拳ではなくダンスで決着をつけようというのがスタートだったためバトル形式での披露がほとんどらしい。(そのアイディアはほんとうに素敵だ。)

どちらが優れているか相手に見せつけるために、パワームーブと呼ばれる派手な大技(たとえばよく見る、頭を下にしてクルクルスピンしたり)を決めたり、相手を煽るステップをする。その、威嚇のため見せつけるために始まったはずの動きが、人の悲しみや悩み迷い喜びなどの感情を表現するように演出され、それがこちら側に届くというのは、「人が踊る」ことの根っこの部分はスタートや様式がちがってもやっぱり同じっていうことなのかなと思えた。

生で観るのが初めてだったので、ステップや細かい動きを重ね合わせた上でピークに大技を持ってくるという構造を取っていることも新鮮かつ、ああ他と共通するんだなあという感動があったし、方法や形は違うけれど、やっぱり意思をもって自らの身体をコントロールすることで意味が生まれて、その動きに心が動かされるんだよなあということを思った。
たくさん並んでいても目が行く人は、筋肉の繊維の一本一本まで本人がコントロールしているみたいに、動きに意味がある。大勢で同じ動きをしても、意思があって感情が載る動きには意味が出る。いくら大技を決めても印象に残らない人は残らないし劇場を一歩出たら顔さえ思い出せない人もいるけれど、そういう動きをする人は今でもありありと顔も動きも思い出せる。

ブレイクダンスの動きは体の重さを手首足首までで止めて指先つま先に流さないので、立ちポーズでもひとつひとつの静止が力強く決まるし、もともと筋力を誇示する意味があるからか片手や身体の一部で全身を支えてポーズを決めることも多く激しく動きながら急にピタッと静止が決まると見応えがある。
動きが流れていかないので一人一人のテリトリーが明確に見えるというのが一番目についたことだった。

それもあって1人混ざっていたクラシックの女性ダンサーが出てくると、たくさんの丸太の中に布が一枚混ざっているようなやわらかさとふにゃふにゃさで、同じ動きを全員で揃えても明らかに浮いていて違和感があった。浮き過ぎていたと思う。
わたしには両者がうまく溶け合っているようにも見えないし際立たせあっているようにも見えなかったので、彼女を入れている理由はよくわからなかった。
役回りで女性ダンサーが必要だとしてもブレイクダンスの女性ダンサーがいいのではないかと思ってしまった。あんまりいないのかな?
もしかすると女性的な動きがないのか。
近い種類のダンサーを入れるとブレイクダンスが誤解されるからあえて違いがわかりやすいクラシックなのかもしれない。

ブレイクダンスを踊る人たちだけでブレイクダンスの方法で舞台を成り立たせてもいいんじゃないかと思ったけれど、バッハとコラボしないとなかなか幅広い層を集められないのかな…だとしたらそこは成功だと思うけれど、バッハの曲である必然性は感じられなくて、クラシック音楽にしたりクラシックバレエと混ぜたりストーリー仕立てにしたり、ブレイクダンスが少し消毒されすぎてる感じもあった。もっと単純にブレイクダンスらしさを織り交ぜてやってほしかったなと思った。
ダンサーたちがホームでフルパワーでやっている姿を見てみたい。


でも、よくよく考えてみるともしそうしてブレイクダンスへの興味を煽るためにこの形態をとっているのだとしたら、ものすごい成功かもしれない。

なぜならわたしはまんまと舞台を観たあとに家でブレイクダンスの世界大会をチェックしたのだ。


2011世界大会優勝のチームVagabond(フランス)
http://youtu.be/q4xzPAHzVng